ネオ・シャーマニックな音楽 | WILD HEARTS REVIEW

WILD HEARTS REVIEW

トライバル・サイケデリック音楽プレイヤー・KAYA/Gypsy Eyesの

ROLLING LOVE&LIFE

…ディジュリドゥ、ネイティブ・アメリカン・フルート、JIMI HENDRIX、サイケデリクス、etc.

ディジュリドゥ、ネイティブ・アメリカン・フルートはともにトラディショナルな儀式にも用いられる楽器である。ディジュリドゥの場合、女子はジェンダー・タブーがあって、マスターに教わることができない。よって、KAYAの演奏スタイルは「コンテンポラリー」なのだ。

このジェンダー・タブーについては、デビッド・ハドソンの前座をやった時、直接デビッドに聞いてみた。
彼はトラディショナルとコンテンポラリーと両方のスタイルで演奏する、ネイティブ・プレイヤーだ。
彼は「ミュージックには男女の別はない。君のスタイルで自由に演奏すればいいんだ。」と言ってくれ、それまで抱いていた「女子にこの楽器は向いていないのでは?」という疑念が吹っ飛んだ。

シャーマニックな音源を聞いていると共通するものがある。
特徴的なトーンと単調なリフの繰り返し、この二つだ。
ディジュリドゥもネイティブ・アメリカン・フルートも独特のトーンを持つ。
ポップ・ミュージック的なコンテキストの中にも「ミニマル・ミュージック」というカテゴリーがあり、そのスタイルで演奏をすると、これはシャーマニックな音楽、ということになる。
もちろん、各部族特有の言語に関わる節回しやリズムなどがあるわけだから、厳密には「なんちゃってシャーマニック・ミュージック」だ。

しかし。
意識の変容は起きるのだ。
演奏していて、「ああ、ヤバイところにきたな」と感じることがある。
自分独りで演奏している時は、どこまでも行ってみるんだけど、ライブの場合は制御する。
誰よりもお客さんに「イッって」もらわないとならないからだ。
ライブの後でお客さんからのフィードバックには、「跳びましたよぉ~」「ヤバイっすね!」「超アンビエントなサイケでしたー」etc.の声を聞く。
意識の変容なのだ。

自分の生育史の中には純粋に伝統的な自国の民族音楽の刷り込みはない。
都会で生まれ育ち、この日本の音楽も一様に他の民族音楽と同次元におかれている。
唯一、自分にとっての「民族音楽」というものがあるとしたら、それは「ROCK」だ。

ROCKのライブが自分にとって初めての「祝祭的」な現場であった。
意識の高揚、変容、非日常的な空間…トリップするのだ。

ROCK的なメソッドを根幹に持ちながら演奏する民族楽器。
これは、後々続いて行く新しいシャーマニックなジャンルなのだろうか。
それとも、ハイブリッド、つまり一代雑種なのだろうか。
答えは時間だけが知っている。